<じゃいあんの東京湾「湿地」探訪-③>
大森海岸

 
 
 
 

「えっ、大森海岸でいまも海苔をつくってるの?」

 そうです。今回は、私が生まれ育ち、住んでいる東京湾の大森海岸で「浅草海苔」復活をめざす取り組みを探訪しました。

大田区大森東1~5丁目は、東に東京港野鳥公園、南に羽田空港を望む、京浜急行と首都高速1号線にはさまれた地域。埋め立てで東京湾から奥まったとはいえ、かつては旧東海道沿いの伝統の漁師町でした。浅草海苔発祥の地なのです。

ここに、大田区が東京湾再生事業で「大森ふるさとの浜辺公園」を整備。人工海浜をつくって「大森・海苔のふるさと館」を開設。規模は小さいが内容の充実ぶりは目を見張るものがあり、全国の湿地を歩いたRCJ副会長の武者さんの「一級品」の折り紙つき。そこが主催する「海苔と浜辺のガイドツアー」に1017日(土)、参加したレポートです。

 午後1時にふるさと館に集合。ガイド付きの3時間のツアーです。

参加者14人は、まず館内で浅草海苔の歴史を勉強。江戸前の海苔づくりは、江戸時代中期(享保年間)、品川~大森沖ではじまり、第二次大戦まで質、量とも日本一を誇りました。しかし、戦後の高度経済成長で水質が悪化し、海苔生産は衰退。東京オリンピック前年の昭和381963)年、東京港湾整備計画によって東京の海苔生産者は漁業権を放棄し、幕を閉じました……というレクチャーを受けて、その昔の海苔づくりの江戸前の海へ出発。

最初はふるさと館前の「大森ふるさとの浜辺公園」。この人口海浜で、なんと、2007年から「アサクサノリ復活プロジェクト」が進行中で、「アサクサノリ生育観察実験」が取り組まれているのです。そのようすを、ガイドさんがパネルで説明してくれました。海苔ひびを建て、網を張り…ほんとうにやっているのです。めざせ2020年オリンピックで浅草海苔を海外アスリートたちに!!

 

・人工海浜で海苔復活プロジェクトの解説をしてくれました。

 
 

次は、人口海浜の南につづく運河の先。そこは、かつて海苔船が係留していた「貴船堀」です。大半は埋め立てられて緑地公園になっていますが、堀を高潮から守るための「木戸水門」の跡が残っていました。私は小学生のころ、ここでゴカイを掘ってハゼ釣りをしたり、鬼ごっこで船から船へ飛び回って怒られた場所です。

 

・現在の貴船堀です。

 
ガイドさんが水門の説明を。
 
・水門跡です

このあと、貴船堀近くの元海苔漁師のお宅を訪問。当時の話を聞き、庭に残された海苔の乾燥小屋を見学しました。海苔の収穫は冬の辛い仕事。家族総出でも手が足りず、毎年、信州などから「シオトリ」と専門の出稼ぎ人が呼ばれていたそうです。この人たちは、やがて広い海苔干し場に自分たちの木造アパートを建て、収入源にしていたそうです。私も小さいころ、そんなアパートに住んでいました。

   

 次に向かったのは、ちょっと内陸の貴船神社。鎌倉時代の創建で、氏子の多くが海苔漁師で、建方祭、悪潮祓し、水神祭など海苔生産に関係する祈願がおこなわれていました。海苔関係の碑も多く残り、「漁業納畢之碑」を見学。この碑は、江戸時代に海苔生産が始まり昭和37年に漁業権放棄するまでの約300年の歴史を伝えるものです。神社裏の、「水止舞」で有名な厳正寺は、鎌倉時代の創建で北条氏のゆかりの寺だそうです。

   

 海苔の本場ですから、いまも海苔問屋「守矢武夫商店」が暖簾を守っています。店で話を聞きました。先代は信州からの出稼ぎ、諏訪地方の海苔商人が多くやってきていたそうです。問屋に重要なのは、入札で良い海苔を仕入れる「海苔の目利きの力」。有明海、千葉、走水など各地の海苔の違い、香りや味の違いを体験できて面白かったです。

 

 ツアーは終盤となり、するがや通り(旧羽田道)から美原通り(旧東海道)へ出て、最後は和菓子の「餅甚」です。知ってますか、有名な名物「あべ川餅」です。創業享保元年(1716)、店主は10代目。初代は静岡出身で、東海道を往来する旅人に出身地の名物の安倍川餅を提供する茶屋でした。餅甚には、海苔漁師が「ヒビに海苔がよく付くように」とたくさんの注文があったそうです。

さあ、食べましょう…ところがところが、なんと本日は「売切れ」でした。ああ、残念。

 
・守矢夫商店。
 
・千葉産と有明産の海苔。
   

『大森 海苔のふるさと館』:東京都大田区平和の森公園2−2 

  norinoyakata.web.fc2.com/

   
   
   (文・写真、じゃいあん。編集、佐藤湧馬) 
 
戻 る