〜アジア湿地探訪〜
第9回 アジアの湿地保全の牽引役−インド



インドがラムサール条約に加入したのは1981年である。イラン、パキスタン、日本に次ぐアジアでは早い加入で、有数の水鳥越冬地として欧州の鳥類専門家には名の知れた存在だったチリカ湖(オリッサ州)とケオラデオ国立公園(ラジャスタン州)をまっさきに国際的に重要な湿地リストに登録した。インドは希少野生動物の取引に関するワシントン条約にもアジアではいち早く1976年に加入している。自然保護の基本理念、法的整備、実施のレベルなどが開発途上国としてはしっかりしているのは、かっての宗主国イギリスから受け継いだ遺産だろう。
 その後90年に4湿地、02年に13湿地、05年に6湿地を追加登録、現在の登録湿地は25湿地で、アジアでは日本(33湿地)、中国(30湿地)に次いで数が多い。
 水鳥の生息地だけでなくマングローブ林、塩田、貯水池、内陸地下カルストなど多様な湿地生態系が含まれ、多様なタイプの湿地の登録を強く促しているラムサール条約の方針を体現している。2005年2月には、32カ国400人を集めた第3回アジア湿地シンポジウムのホスト国も務め、いろいろな意味で、アジアの湿地保全の牽引役を果たしている国のひとつである。

●湿地のレッドリスト、モントルーレコード
 ラムサール条約には、国際的に重要な湿地リスト以外に、「モントルーレコード」というもうひとつの登録簿がある。ラムサール登録湿地の生態学的特徴が人為的要因によって著しく劣化・減少した場合ここに記載し、保全や回復を促すための湿地の「レッドリスト」である。1990年の第4回締約国会議(モントルー)の決議による制度なのでこう呼ばれている。2006年7月現在31か国57湿地が記載され、このうち12湿地がアジアに存在する。
 モントルーレコードへの記載は、登録湿地の保全と賢明な利用の責任を果たせなかったことを国際的に公言することでもあるから、締約国にとって名誉なことではない。しかし、湿地の生態系を回復するための資金、技術などの国際的支援が受けやすくなるという、とくに開発途上国にとっては見逃せないメリットもある。
 課題は、記載された湿地のダウンリスト、つまり登録簿からの解除がなかなか進まない点である。90年の設置以来、これまでに累計80湿地が記載されたが、首尾よく生態系回復を果たして解除されたのは23湿地しかない。90年から現在まで記載されっぱなしの湿地が32湿地もあり、そのなかにはドイツのワデン海やスペインのドナーニャ国立公園、ヨルダンのアズラク湿地のように、それぞれの国を代表するような湿地も含まれている。米国フロリダ半島のエバーグレーズ国立公園も93年、上流部の農地・宅地開発による水質汚染、生物多様性減少が著しいという理由で記載され、さまざまな回復の努力と資金投入、自然再生事業にもかかわらず、現在にいたるまで解除できないままである。湿地という脆弱な生態系は、いったん壊れてしまうと簡単には取り返しがつかないという現実を、モントルーレコードは私たちにつきつけている。

●2つのモントルーレコード記載の湿地
 インドには、モントルーレコードに記載されている湿地が2つある。ケオラデオ国立公園と、ロクタック湖(マニプール州)である。
 ケオラデオ国立公園は、森林と沼沢からなる緑地帯(2800f)で、かつてはマハラジャ(地方領主)の狩猟地だった。年間降雨量660_bの乾燥地帯にあり、上流部の灌漑用ダムからの導水によって乾季にも青々とした緑と水をたたえるように人工的に管理されているため、多くの野生生物が集まってくる。1956年に有数の水鳥生息地としてサンクチュアリに指定され、81年にラムサール登録、82年に国立公園となり、84年には世界自然遺産に登録された。しかし、家畜の違法放牧による植生変化と、周辺地域の水需要の増大に伴って公園への適正な導水が難しくなり、乾燥化が進み、90年にモントルーレコードに記載されて現在にいたっている。
 私は、97、98、01年とここを訪れているが、最近はとくにラジャスタン地域の旱魃が激化の傾向をみせており、「農業用水を求める地域農民との軋轢が高まり、公園内の水不足はますます楽観できない」と90年代半ばから公園周辺の学校生徒を対象とした環境教育活動をつづけているインド環境協会のデッシュ・バンドゥさんは懸念している。
 ロクタック湖は、マニプール州インパールの南西に位置するインド北東地域では最大の天然沼沢地(2万6600f)で、90年にラムサールに登録された。有数の水鳥生息地であるとともに、10万人の地域住民の生計を支えている重要な湿地だが、周辺地域の人口増加、農業・漁業・水資源開発などの圧力で伝統的な賢明な利用が維持できなくなり、93年にモントルーレコードに記載された。ロクタック湖の環境と開発を統合的に実現するため、86年に州政府の管轄下に設置されたロクタック湖開発公社を中心に保全と回復への努力がつづけられているが、画期的な成果はあげられないでいる。
 実は、インドには02年まで、もうひとつのモントルーレコード記載の湿地があった。オリッサ州のチリカ湖である。
 チリカ湖は、インド東部ベンガル湾に面したインド最大の汽水湖(11万f)で、100万羽超の渡り鳥の越冬地である。1981年に登録湿地となった。海と川の水が複雑に混じりあう汽水生態系だけに漁業資源が豊富で、12万人の漁民が湖で生計を立てている。各地で絶滅が懸念されているイラワジカワイルカの生息地としても知られている。
 しかし80年代後半から、上流部の農地開発、森林伐採などの影響による土砂の大量流入によって、湖と海を隔てる砂嘴の発達が進み、海への開口部(湖口)が狭隘化、満潮・干潮ごとに繰り返されていた海水と淡水の交流が妨げられるという現象が顕著になった。海からの水産資源の供給がなくなり、淡水化した湖内では汽水性の生物が絶滅、ホテイアオイなどの淡水性水草が生い茂り、舟の航行にすら支障がでるようになった。さらに外部資本によるエンジンボートと網目の細かいネットを使った一網打尽的漁法の横行と、エビ養殖場の設置による漁場占拠が追い討ちをかけた。水揚げ量が10年で8分の1に激減、漁民の暮らしが危機に瀕したばかりか、エサの減少でかつて200万羽を記録したとされる水鳥の数も激減した。93年、チリカ湖はモントルーレコードに記載された。

●湖の再生に成功したチリカ湖
 オリッサ州政府は91年、チリカ湖開発公社(CDA)を設置し、生態系を回復するための抜本的な調査研究に着手した。専門家の出した結論は、外海とつながる湖口を人工的に開削すべしという、賭けにも似た大事業の提言だった。CDAはさらなる専門家の助言、海外の先進事例の研修を求め、99年夏、ラムサールセンターの招きで、代表のA・K・パトナイクさんらの北海道サロマ湖訪問が実現した。
 日本最大の汽水湖サロマ湖はかつてチリカ湖と同じく、湖口の狭隘化に悩み、1929年と78年の2回、人工湖口の開削に踏み切った経験をもつ。
 日本有数のホタテ養殖漁場としてよみがえった現在のサロマ湖の活況と、湖の環境管理と漁獲規制に主体的に取り組む漁協組合員の姿勢は、パトナイクさんに大きな勇気と確信を与えた。
 2週間の研修を終えて帰国したパトナイクさんは、翌2000年初頭、新湖口開削という前例のない工事の着工に踏み切り、半年がかりの事業のすえ、同年9月、湖口が開いた。その結果チリカ湖の塩分濃度が劇的に回復、生物多様性が改善、漁獲量は7倍に増大した。CDAは湖口開削事業と並行して、地元NGOの協力を得て漁民への環境教育をすすめ、資源の枯渇に通じる違法ネットやエンジンボートの使用を禁止し、湖内からエビ養殖場を一掃、持続可能な伝統的な漁法への回帰を促した。
 ラムサール条約は02年、チリカ湖をモントルーレコードから解除した。さらに、最もすぐれた湿地生態系の回復と住民参加を実現したことを評価し、同年開催の第8回締約国会議(スペイン・バレンシア)はCDAにラムサール湿地保全賞を授与した。モントルーレコードの解除、ラムサール賞受賞ともに、アジアの湿地では初の快挙だった。パトナイクさんは、ラムサール湿地保全賞受賞インタビューで、「決断の背中を押してくれたのは、サロマ湖というお手本だった」と語っている。
 十分な情報公開とていねいな協議の積み重ねの結果、チリカ湖の住民は湖の管理への主体的な参加の意義を理解しつつある。湖の状況が最悪だった97年からほぼ毎年現地を訪れている私には、チリカ湖の人々の表情にかってない明るさと自信が生まれてきていることがよくわかる。
 チリカ湖とサロマ湖の民間湿地交流はいまもつづいていて、これまでにチリカ湖から3回、サロマ湖からも3回、互いの湿地訪問が実現している。チリカ湖をよみがえらせた陰に、はるか北海道サロマ湖の経験が役立ったと思うと、うれしくなる。


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