〜アジア湿地探訪〜
第8回 湿地課題の解決が鍵に−中国(2)


 中国がラムサール条約に加入したのは1992年である。加入と同時にシァンハイ向海湿原(吉林省)、ザーロン札竜湿原(黒龍江省)、ポーヤンフー幡陽湖(江西省)、ドンドンティン東洞庭フー湖(湖南省)、チンハイフー青海湖(青海省)、ドンツァイガン東寨港(海南島)の6湿地をラムサール条約に登録した。別表のとおり東寨港の5400fを最小に、広大な面積の湿地が登録され、条約の実施における中国の重みを認識させられた。
 現在、国際NGO「ウェットランドインターナショナル(WI)中国」代表のチェンケリン陳克林さんを知ったのは1993年、中国が締約国として初めて参加した第5回締約国会議(釧路)である。当時、中国国家林業局の役人だった陳さんは、政府代表団員として、誰に対しても笑顔で握手を求めていた。
 表情豊かに英語を話す30代半ばのこの行政官は、私がもっていた中国政府役人のイメージを一変させた。条約会議などの国際会議の場での中国代表は、英語が共通語と決められているのを知りながら、通訳つきの中国語使用をはばからず、議事進行におかまいなく朗々と演説を続けるなど、やや国際センスにかける人たちも少なくなかったからだ。
 1994年12月、国家林業局はアジア湿地局(AWB)、WWFの2つの国際NGOの協力を得て、湖南省洞庭湖畔のユエヤン岳陽市で「中国国家湿地ワークショップ」を開催した。中央政府や各省の湿地担当部局代表180人が集まり、湿地の管理と保全に関する現況の把握、各機関の役割や、緊急対策と省庁間協力の必要性の確認、湿地管理行動計画の概要策定などを協議した、初の全国レベルの湿地会議だった。広大な国土の中国で、日本の県などとは比較にならないほど強力なパワーと自主性をもつ各地方省政府を、湿地保護という「スロー」なテーマで横並びさせるのは簡単なことではない。それを実現したのが、事務方を務めた陳克林さんだった。
 「会議の初日は各省庁のあいさつが延々とつづき、それだけで1日かかった。でもこれは中国では大切な参加のプロセス。陳克林の卓越したコーディネート力を感じた」と、当時、国際湖沼環境委員会(ILEC)からワークショップに参加した安藤元一さん(現・東京農大助教授)は語っている。
 1996年、中国政府は2つの国際自然保護NGOの中国事務所の開設を初めて承認した。WWFとWIである。WI中国の代表には陳克林さんが就任した。それまで中国にも草の根レベルのNGOはあったが、これが中国NGOの国際舞台での活躍のスタートとなった。

●湿地は香港の貴重な自然公園
 中国のラムサール条約湿地は95年に1か所、2002年に14か所、2004年に9か所ふえて、現在30か所である。私はこのうち4か所を訪れたことがある。
 香港自治区の米埔(マイポ)には、英国からの返還前に3回行った。ディープベイ(後海)内湾の南岸に広がる泥干潟とマングローブ林の湿地で、シギ・チドリ類の渡りの通過点として重要なだけでなく、かつてマングローブと潮の干満を利用した伝統的なエビ養殖漁業「ゲイワイ」が盛んに行われた地域だ。1975年に宗主国英国が野生動物保護区に指定し、WWF香港が管理をする、知る人ぞ知るバードウォッチャーの探鳥ポイントだった。浅い後海湾を隔てて中国本土と向き合う防衛の要でもあり、本土からの不法入国を監視する名目で保護区はフェンスで囲まれていたため、水鳥にとっては安心できる生息地となっていた。
 香港の中国返還にさきがけた1995年、中国が保護区にしていた北岸の湿地ともども、米埔・後海湾保護区としてラムサール条約湿地として登録された。
 保護区内では、「ゲイワイ」漁法がWWF香港の主導でいまも継続され、エビの売り上げが管理費用に還元されるなど、湿地の賢明な利用が行われている。市内の小学校と連携しての環境教育プログラムが成功し、香港には数少ない自然公園として市民に愛されているだけでなく、返還後は中国全土から観客が訪れる人気スポットになっている。2006年5月、隣接する地域61fが新たに環境教育目的の湿地公園として整備されたというニュースも届いている。

 
●シフゾウの回復にも成功
 江蘇省ダーフォン大豊シフゾウ自然保護区と黒龍江札竜自然保護区は、それぞれ2004年、2005年に「日本・中国・韓国子ども湿地交流」の舞台となった湿地で、日本や韓国の子どもや先生たちといっしょに訪ねた。
 大豊自然保護区は、黄海に面した広大な海岸性湿地で、中国固有のシカの仲間シフゾウ(四不像)の生息地だ。かつて中国の広い範囲に生息していた湿地を好むシカで、角はシカ、顔はウマ、尾はロバ、ひづめはウシに似るとされる不思議な姿の動物だ。
 乱獲などで19世紀末までに野生個体はほとんど絶滅したが、「中国産珍獣」としてフランスや英国に持ち出されていた個体が人工飼育され、1956年から少しずつ中国に戻され、北京のシフゾウ保護施設や大豊保護区での人工増殖で数百個体にふえている。そして数年前から野生復帰プログラムが開始された。
 一度は絶滅したシフゾウの回復は、百年余を経て成功した国際協力による湿地生態系再生事業として、世界に誇れる快挙なのだが、実は地元以外にはあまり知られていない。海外からの観光客はもとより、国内の観光客もあまりいないようだ。環境教育の格好のテーマとして、もっと積極的に活用できる素材なのだが。
 黒龍江省の札竜は、ヨシ群落の低層湿原と湖沼が連なる湿地で、ハルビンからチチハルまで湿地を横断する鉄道でも2時間かかる広大な保護区だ。タンチョウなど6種のツルをはじめ、サギ、ガン、カモ、草原性の小鳥類など270種の野鳥が記録されている。ツルを特別の鳥として愛でる文化は日中韓に共通していて、釧路湿原と同じく、札竜保護区のスターもタンチョウだ。
 人工増殖された数百羽のタンチョウが飼育されていて、ケージから放たれて飼育人の合図でいっせいに舞い上がり、湿原の空を自在に飛翔するパフォーマンスを公開している。休日には中国各地から大型バスを連ねて観客が訪れ、ツルの群れが頭上を高く低く舞い飛ぶ姿に、声にならないため息のような歓声をあげている。私たちが訪れたときは、「日・韓・中3国の子どもの友好のために」と時間外特別パフォーマンスを見せてくれた。圧巻だった。
 もう1か所訪れたラムサール条約湿地は雲南省のラシハイで、玉竜雪山のふもとにある淡水湖沼だ。世界遺産の街、麗江の上流にあり、独特の生態系と、少数民族納西族の伝統文化をもつ湿地だが、詳しくはまたの機会にゆずることにする。

●湿地保全を強化
 ラムサール条約の監督官庁は、日本では環境省自然環境局だが、中国では国家林業局で、傘下に設置されたラムサール条約履行事務局が条約に関する手続きや管理の統括窓口になっている。各地のラムサール条約湿地の具体的な管理は、中央政府の方針にしたがって各省が実施し、湿地と野生生物の調査、保全管理、普及啓発などをすすめている。
 国家林業局は2000年、他17省庁と連携して、湿地保全の骨格と方向性を示す「国家湿地保全行動計画」を策定し、2003年には、中国国務省の10の部局と協議しての「中国湿地保全計画国家プログラム」を発表した。それに基づき、各省レベルにおける湿地保全規則の制定が促進されており、2006年6月現在、黒龍江省、甘粛省など4省が策定を終えているという。
 中国湿地保全計画国家プログラムは2030年までの数値目標として、湿地保護区を713、ラムサール条約湿地を80にふやすことを掲げている。それによって国土の90%の湿地が保護下におかれ、140万fの湿地が再生され、53の賢明な利用モデル湿地が誕生するという。壮大な計画である。中国の環境政策において湿地政策がきわめて重要な位置を占めていることがわかる。中国国務省は昨年、中国全体で湿地保全を強化する通達を出している。
 中国には長江と黄河という西から東に流れる2大河川があり、この大河の形成したデルタ地帯に人口が集中している。この2つの大河の治水と利水、開発と保護のバランスをどうとるかは、これまでの歴史が証明するように、この国の将来を大きく左右する。
 中国はいま急激な経済発展の軌道にあり、人口増加、気候変動などの影響も受けて、各地で水不足、旱魃、砂漠化、洪水、水質汚染などの問題が拡大している。これら湿地課題の解決に大きな鍵となるのは、国民への環境教育・普及啓発である。前号で紹介したように、いま中国の各地の都市に湿地公園が誕生しているのは、政府が水問題の解決に国民を巻き込んで、いよいよ本気に取り組まざるをえないと認識していることと無縁ではない。


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