〜アジア湿地探訪〜
第6回 湿地政策が国家政策の要──バングラデシュ



  バングラデシュは湿地の国である。IUCNの「アジア湿地要覧」(1989年)によれば、この国には700本の河川(総延長2万4000`b、総面積48万f)が走り、その網の目を縫うように現地の言葉でハオル、バオル、ビールと呼ばれる大小の季節性淡水湖沼群(12万〜29万f)が点在し、さらに人工の貯水池や養殖池が24万〜29・5万f、季節的に水深30a以上湛水する地域が577万f、マングローブ林などの沿岸湿地が61万f存在するという。合計すると、国土面積(14万4000平方`b)のおおよそ50lに近くなる。
バングラデシュには山らしい山がない。標高1230bを最高点とする東部チッタゴン丘陵地帯などを除き、国土の90lが平原である。ヒマラヤを源流とした大河、ガンジス川(現地ではパドマ川)が西から、ブラマプトラ川(ジャムナ川)が北から、メグナ川が北東から流れこみ、この国のほぼ中央で合流して世界最大のデルタ(8万平方`b)を形成しているからである。

 合流してガンジス(パドマ)川となった川は、幾筋もの支流にわかれながら扇状地をゆっくりくだり、中国、ネパール、ブータン、インドなど上流流域国から運んできた大量の土砂をはきだしながら、ベンガル湾に流れこむ。河口部には広大な泥干潟とマングローブ林が発達し、なかでも超級のスケールを誇るのが、インド・バングラデシュ国境におおいかぶさるように横たわる世界最大規模のマングローブ林、スンダラバン(ベンガル語で「美しい森」の意)である。総面積はおよそ100万fにおよぶとされ、その60lはバングラデシュ側に存在する。バングラデシュの国獣であるベンガルトラをはじめ多様な野生生物が生息している。
 かつてはベンガル湾東岸のコックスバザール地域にも、チャカリア・スンダラバンという2万f規模の発達したマングローブ林があった。しかし、1980年代以降、国策としてエビ養殖池や塩田に転換され、いまは往年の姿をみる影もない。 

 ●恵みをもたらす「洪水」
バングラデシュは亞熱帯モンスーン気候に属し、乾季と雨季の違いがはっきりしている。11月〜3月にはほとんど雨が降らないが、6〜10月に年間降雨量約2000_の80lがどっと降る。
 降った雨を一気に海へ流れ落とす急峻な河川をもつ日本と異なり、平原の国バングラデシュでは、雨は川や湖、池、水路、水田にあふれだし、境界のない巨大な規模の水たまりをあちこちにつくる。雨季の盛りには文字どおり国土の大半が水没し、人々は水面に舟や筏を浮かべ、もっとも有効で便利な交通手段として活用する。バングラデシュは洪水の国でもある。
 洪水ときくと私たちは「災害」をイメージしがちだ。しかしバングラデシュでは洪水は、毎年繰り返される自然現象のひとつでしかない。洪水のたびに土砂とともに撒き散らされる栄養分が、1億4000万人の糊口を満たす水田稲作の肥料となり、乳や労働力を提供する家畜のための牧草を育て、貧しい国民にとってはとくに貴重な動物性タンパク源である淡水性魚類の餌となる。
 洪水は、いつものようにやってきていつものように去っていくかぎり、人々の暮らしに恵みをもたらす歓迎すべき季節現象なのである。氾濫原に無数に散らばる大小の季節湖沼群をベンガル語では、雨季になると出現するハオル、乾季にも水の残るビール、旧河道の三日月湖バオルなどと名づけ、永久湖沼や永久河川と呼びわけている。こんなところにも洪水が人々にとってむかしから身近な存在だったことがうかがえる。
 しかし、近年、バングラデシュでの洪水の起こり方に異変が起きている。雨季でないのに大雨が降ったり、異常な増水や渇水がおきたり、農作物や人命に甚大な被害がおよぶケースも少なくない。これには地球規模の気候変動や、温暖化の影響が指摘されているが、バングラデシュのかかえる社会経済的課題も色濃く影をおとしている。
●危険な低湿地帯に住む最貧層
 私がはじめてバングラデシュを訪れたのは1994年10月、ダッカに本部をおく現地NGO、バングラデシュ・ポーシュから活動地の見学に誘われたのがきっかけだった。雨季の終わりのシーズンで、ダッカに近づく機上から見たバングラデシュはどこもかしこも水浸し状態。水田特有の畦らしい区画もみえず、どこまでが川で、湖で、農地なのか見当がつかない。車の走る道路だけが、巨大な湖にかかった橋のように浮かんでみえた。
しかし翌日、ポーシュの案内でダッカ郊外の水たまりのひとつをボートでくだるうち、面白いことに気がついた。水位が下がり、少しずつ顔を出してきた土の湖岸が、中心に向かって段々状のテラスになっている。水中に隠れていた棚田状の水田が顔を現してきたのだった。
 上部のやや乾いたテラスにはうっすらと緑の草の芽が生え、ヤギが三々五々立ち止まっては、口を動かしている。水に漬かっている間に壊れた畦の修復にとりかかる人々の姿がそこここにあり、すでに田植えの終わった稲苗がよわよわしく風にゆれている田もあった。
日差しが強く気温が高いバングラデシュでは、田植えを早くすれば、次の雨季までに2期作、3期作が可能である。しかし水がひくのが遅い低地の水田では、田植えの時期も遅くなり、逆に収穫は急がされる。時間の制約で1期作しかできなければ、効率のいい収量は当然期待できない。
 バングラデシュでは、水田耕作用の土地の大部分は私有地である。上部のいい場所を占有した者は成功者となるが、土地を持たない者は、高いリース料を払って地主からいい土地を借りるか、わずかな気象の変化での冠水や水没のリスクを承知で、安価な低地での耕作を余儀なくされる。
 水田だけではない。金のある者は異常な洪水やサイクロンによる高波を避けられる高台に住所を構えられるが、土地も家もない貧者は、危険な海岸線や低湿地帯に追いやられていく。バングラデシュを襲うサイクロンや洪水で数百人、数千人単位の死者がでるとき、被災者の多くは、本来なら人が住んではいけない場所に住み、耕作不適地で耕作をしなくては生きていけない最貧層の人々である。人口増加が続くバングラデシュで、残念ながら、こうした底辺の人々の数はいまだにふえつづけている。

●湿地資源の可能性
 ネパール、インド、バングラデシュを流域国とする国際河川ガンジス川の最下流国であることも、この国にもうひとつのむずかしい課題をつきつけている。上流国で実施される治水、利水などさまざまな施策や事業のつけが、下流国にはまわってくる。たとえば国境の大半を接するインドが1970年代に建設したファラッカ堰によって、バングラデシュに流れこむガンジス川の流量が減少してしまった問題をめぐっては、両国は長年の抗争をつづけてきた。96年になってようやく「ガンジス川条約」がむすばれ、対話による公平な水資源配分と利用への道筋がつけられようとしている。
 バングラデシュは、1992年にラムサール条約に加入した。加入時にスンダラバン森林保護区を第1のラムサール条約湿地に、2000年にタンガーハオルを第2番目のラムサール条約湿地に指定している。しかし、いまだに条約湿地は2か所である。
 国の大半が湿地なのに不思議に思えるかもしれないが、ラムサール条約の求めている「国際的に重要な湿地」の定義をこの国にあてはめるのがむずかしいからだろう。別表の基準1から9をみてほしい。ほとんどすべての基準がこの国の湿地はあてはまるようでもあり、それがかえって国際レベルでどれが重要なのかの判別をむずかしくしている。
 いまこの国は、アジアの最貧国とよばれる。湿地資源のほかにこれといった資源がない以上、いかに湿地の価値を高め、賢明な利用を図れるかが国家の矜持として問われている。
 バングラデシュの国家政策は湿地政策を抜きには考えられない。いっそ国を丸ごと登録してしまったらどうだろうか、と思うのは私だけだろうか。

別表

国際的に重要な湿地の登録基準
基準1:特定の生物地理区を代表するタイプの湿地、又は希少なタイプの湿地
基準2:絶滅のおそれのある種や群集を支えている湿地
基準3:生物地理区における生物多様性の維持に重要な動植物を支えている湿地
基準4:動植物のライフサイクルの重要な段階を支えている湿地。または悪条件の期間中に動植物の避難場所となる湿地
基準5:定期的に2万羽以上の水鳥を支える湿地
基準6:水鳥の1種または1亜種の個体群で、個体数の1%以上を定期的に支えている湿地
基準7:固有な魚類の亜種、種、科の相当な割合を支えている湿地。また湿地というものの価値を代表するような、魚類の生活史の諸段階や、種間相互作用、個体群を支え、それによって世界の生物多様性に貢献するような湿地
基準8:魚類の食物源、産卵場、稚魚の生息場として重要な湿地。あるいは湿地内外における漁業資源の重要な回遊経路となっている湿地
基準9:湿地に依存する鳥類に分類されない動物の種及び亜種の個体群で、その個体群の1パーセントを定期的に支えている湿地


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