〜アジア湿地探訪〜
第3回 エコツーリズムで村が元気に−タイの湿地



 日本からタイに向かう飛行機は、南シナ海側からインドシナ半島をベトナム、ラオスと横断し、タイへとすべりこんでいく。晴れていれば、ベトナム・ラオス国境のアンナン山脈の森林地帯と、ラオス・タイ国境を流れるメコン川の大蛇のような姿が手に取るように見える。メコン川を飛び越えてまもなく眼下に広がるのは、タイ中央部を貫流するチャオプラヤー川下流域の沖積平野に広がる水田の光景だ。タイの米総生産量の3分の1を支える大穀倉地帯である。
規則正しく長方形に区切られた田には水が張られ、太陽を反射してきらきら光り、まるで地面に置かれた巨大な板ガラスの列のようだ。田1枚の面積はかなり大きく、近代的な灌漑稲作がおこなわれていることが見てとれる。コメ輸出大国タイの面目躍如の光景であるとともに、タイはバングラデシュと並ぶ「湿地の国」であることをいつもながら思い知らされる。

 
●ラムサール条約湿地は10カ所に
 タイがラムサール条約に加入したのは1998年である。世界で110番目、アジア地域で19番目で、けっして早い加入ではなかった。タイは90年代前半、マレーシアと並んでインドシナ半島の経済発展の牽引役だったばかりか、メコン川という超級の国際河川をかかえ、東南アジアの自然環境保全のイニシアチブをとることが国際的にも期待されていた。しかしタイは、3年に1度のラムサール条約締約国会議には、律儀に政府代表をオブザーバーとして派遣はするものの、なかなか条約を批准せず、インドネシア、ベトナム、マレーシア、フィリピンなどのASEAN諸国や中国、韓国にも遅れをとり、条約事務局をやきもきさせた。
とはいえ、タイは手をこまねいて、批准を先延ばししていたわけではない。
 1992年、環境政策の要である国家環境委員会の下に「湿地管理国内委員会」を設置し、統合的な湿地管理政策と行動計画の策定に着手している。そして、同時期に発足した科学技術環境省の環境政策計画局を、ラムサール条約の主たる担当部局と位置づけ、国立公園・野生動植物、森林、海洋・沿岸資源、水資源など多岐にわたる湿地関連部局の施策を国の湿地政策に沿って調整する役割を担わせ、条約の履行を効果的にすすめるための国内体制を整えた。
並行して大学の研究者らによる国内の湿地調査を開始し、96年までにタレノイ湿地禁猟区(パッタルン県)、ブンボラペット湖(ナコンサワン県)、サムロイヨー国立公園(プラチュアプキリカーン県)の3カ所を条約登録候補湿地として公表した。
そして97年には、そのひとつのタレノイ湿地の「保全と持続可能な利用のための行動計画」を策定、1998年9月の条約加入と同時に、第1号のラムサール条約湿地に指定したのである。
 しかし実は、周到な準備にもかかわらず、第1号ラムサール湿地として登録されたのは、政府が当初登録をめざしたタレノイ湿地禁猟区全域4万5700ヘクタールのうち、メラルーカというフトモモ科の高木を優先種とする湿地林が広がるクアンキーシアン地域(494ヘクタール)だけだった。
「登録すると土地所有権が国際機関に移譲されるという誤まった情報が広まり、地元地権者の理解が得られなかった」と、タイ政府ラムサール条約担当の上級オフィサー、ニラワン・ピピソムバットさんは語っている。タイはその後2001年に5か所、02年に4か所を追加登録し、現在ラムサール条約湿地は10か所あるが、ブンボラペット湖とサムロイヨー国立公園は、同様の地元との調整の不調が影を落としたとみられ、未登録のままである。
日本でも1980年の条約加入当時、最有力候補だった北海道の風蓮湖の登録が、漁業などが規制されると誤解した地元住民の反対で果たせず、最終的に人間の利用がほとんどない釧路湿原におちついたという経緯がある。風蓮湖は05年にようやくラムサール条約湿地になった。かけちがったボタンの修復に、実に25年の時間が必要だったのである。


●急増する観光客
 タレノイ湿地は、タイ南部、南シナ海に面した潟湖、ソンクラ湖の最上流部に位置し、丸くて浅い淡水湖沼のタレノイ湖(2800ヘクタール)と流域の湿地林(4200ヘクタール)、スゲの湿原(1万9000ヘクタール)、水田(6600ヘクタール)などから成っている。数多くの水路が走り、インドトキコウ、コハゲコウなどコウノトリの仲間や、レンカク、サギ類、数万羽のリュウキュウガモやナンキンオシが越冬する有数の水鳥生息地で、1975年、一帯の4万5700へクタールがタイ初の禁猟保護区の指定を受けた。
湿地とその周辺には37村5000世帯の住民が住み、ナマズなどの淡水漁業、家畜放牧、水田耕作、植林ゴムの木による天然ゴムの採取、そして湖に自生する水草クラジュート(フトイの一種)の茎を加工して編むマットやバッグなど手工芸品の生産・販売などで生計を立てている。
 私はここを、ラムサール条約湿地になる前の1994年、96年、登録後の2003年、05年と4回、訪れている。
 最初に訪れた94年9月には、バンコクから1日1便の飛行機で、まずマレーシア国境に近いハジャイに飛び、翌日、未舗装道路を車で長時間ゆられ、タレノイ湖に到着したときは、すでに午後の太陽が傾きかけていた。地元の漁民の小舟で、一年中咲き続けるというスイレンとハスの花をかきわけるように湖を一周し、タイ王室も避暑に訪れるという禁猟区管理事務所内の水上コテージに宿をとった。桟橋のうえに置いた木製のベンチをテーブルに、満天の星の下で、ときおり響くくぐもったバンの声を聞きながら、漁師のお母さんたちがつくってくれたスイレンや空芯菜の炒め物、ナマズやエビのから揚げなど湿地の恵みに舌鼓を打ったものだ。
 それから11年後の05年6月、4度めにタレノイを訪れたとき、バンコクとハジャイ間には早朝から夕方まで、1〜2時間おきに飛行機が飛んでいた。ハジャイとタレノイは真新しい自動車道路でつながれ、わずか2時間の行程となった。水鳥の集まるタレノイ湖は、かつては欧米のバードウオッチャーらの知る人ぞ知る探鳥の穴場だったが、ラムサール登録以降、訪れる観光客は年々ふえ、いまでは年間20万人を数えるという。
村人の生活道路だった湖畔の道は拡幅され、大型バスが止まれる駐車場、あずまやふうの喫茶店やみやげもの屋が並んだ。数組の客が泊まれば満員だった禁猟区管理事務所内の水上コテージは増築され、ビジターセンター、レストラン、売店も敷地内に開店した。クラジュートの手工芸品生産は地域の主要産業のひとつとなり、原材料調達のための人工栽培もおこなわれている。小舟での湖観光ガイドとしての漁師の副収入もばかにならない。民家の軒先から垣間見えた真新しい電気洗濯機や冷蔵庫が、住民の暮らしぶりの向上を雄弁に物語っていた。

●賢明な利用に向けて
 97年に策定された「タレノイ湿地の保全と持続可能な利用のための行動計画」では、湿地の保全と地域振興を両立するキーのひとつに「エコツーリズム」が位置づけられていた。地域振興の観点からは、タレノイ湿地はそれに成功した。タイの経済発展が人々の自然への関心を高めたともいえる。
しかし、湿地生態系の保全という観点から眺めたとき、生活排水やプラスチックゴミなどによる湖の汚染、ホテイアオイなど水草の過剰繁茂、水質汚染が引き起こす漁業資源の減少と、その裏返しとしての過剰漁獲、過剰放牧による湿原の荒廃、気候変動による降雨量の変化が引き起こす異常な洪水と渇水、上流域からの土砂の流入による浅底化など、課題は山積している。かねてより指摘されている湿地林の違法伐採もまだ根絶されてはいない。
 タイ政府、タレノイ禁猟区管理事務所、国際NGO「ウェットランドインタナーショナル・タイ事務所」、そして地元の草の根NGO「タレノイ保全クラブ」は2003年2月2日の「世界湿地の日」に、日本、インド、バングラデシュなど海外の湿地専門家15人を含む800人が参加する盛大なイベントを共催し、ラムサール登録5周年を祝った。ソンクラ湖の周囲のすべての中学校の代表生徒120人を対象にネイチャーキャンプを行い、タレノイ湖の資源の回復を願って10万尾の稚魚を放流し、「ラムサール条約湿地になって、何を得て、何を失ったか」という公開対話集会を開いた。
「タレノイにはさまざまな困難がある。たいせつなのは、湿地に暮らすわれわれ地元の人間が、保全と賢明な利用に正しい関心をもち、責任を持って管理に参加することだ。そのためにはもっと普及啓発と能力向上に力を入れないと」と、タレノイ保全クラブの代表チン・ブアバンさんはいう。そのためには、同じような経験、課題をもつ日本の湿地の保全と管理について学びたいと考えている。
 チン・ブアバンさんたちのこの希望が、今年はかなうかもしれない。北海道のサロマ湖の漁業共同組合と、霧多布湿原で活動するNGOが、ラムサールセンターを通じてこの話を知り、協力の意思表示をしてくれているからだ。
実現にはまだいくつかのハードルがあるだろうが、「湿地」をキーワードに、アジアの現場で活動するNGO同士の生きたネットワークが育つことを期待している。


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