〜アジア湿地探訪〜
第2回 アジア大津波とマングローブ林


 2004年12月26日、スマトラ沖地震による想像を絶する大津波がインドネシア、スリランカ、インド、タイ、マレーシア、アフリカの一部まで襲い、インド洋沿岸域に死者20万人ともいわれる大きな被害をもたらした。私はこの大災害の第1報を中国の上海で聞いた。
 江蘇省大豊自然保護区(ラムサール条約湿地)を日本と韓国の子どもたちと訪ね、中国の子どもたちと交流した「日中韓3国国際子ども湿地交流」(12月24日〜)を終えて帰国する途中だった。上海のホテルで中国の友人が、インド洋沿岸が地震と大津波でたいへんなことになっているらしい、と教えてくれたのである。
 まっさきに気になったのは、インド東部ベンガル湾岸にあるラムサール条約湿地のチリカ湖だった。チリカ湖は、インド・オリッサ州にある琵琶湖の1・5倍もある大きな汽水湖で、幅400メートルの湖口でベンガル湾とつながっている。

土砂の堆積で一度ふさがった湖口を、日本のサロマ湖の成功例を手本に、2000年に人工開削したばかりである。
海と湖を隔てているのは、高さ数10メートルのやわらかい砂嘴で、湖内には大小の島が点在し、数万人の漁民が暮している。津波に襲われれば、湖内の島の多くが洪水となり、さらに引き潮のエネルギーで砂嘴がひとたまりもなく破壊されてしまう可能性もある。過去7回にわたってチリカ湖を訪問し、現地の状況を知っていただけに気がかりだった。
 またラムサールセンターが2か月後の2005年2月に、チリカ湖の近くのブバネシュワル市で、アジア地域の湿地専門家やNGOを対象にした「アジア湿地シンポジウム(AWS2005)」の開催準備を、州政府とインド政府、日本の環境省などと協力して1年以上前から進めていたからでもあった。チリカ湖のみならずインド洋沿岸域で異変が起きれば、シンポジウム開催計画は中止せざるを得ないだろう。


津波と沿岸湿地に関する緊急特別セッションの実現
 結果的には、チリカ湖やプーリー海岸のあるオリッサ州はじめバングラデシュやミャンマーなどベンガル湾の内奥部地域では、津波の被害は少なかった。スマトラ沖地震のエネルギーが東西に強く、南北には比較的弱かったからだ。AWSも支障なく開催できることがわかった。しかし、アジアの国々の被害は深刻で、ラムサールセンターの内外のアジア会員を結んでいるメーリングリストには、各地の状況や安否を知らせる情報が刻々と寄せられた。
 津波直後のマスコミ報道は、破壊のすさまじさや被災者数を伝える深刻な事件報道と、被災者救済や緊急避難対策の重要性を訴えるもの、警告システムの欠如や地震と津波に関するアウェアネス不足など社会防災システムの観点からのものが主だった。
 そんななかでラムサール条約事務局の公式ホームページは1月9日、「津波後のリハビリテーションへの協力態勢、整う」という見出しで、マングローブ林をふくむ健全な沿岸湿地生態系回復に科学的・技術的支援を提供するため、条約事務局と国際NGOのウェットランド・インターナショナルが協力して取り組むことになったという情報をいち早く配信した。ブリッジウォーター条約事務局長は緊急メッセージを発表し、津波被害を増大させた要因が、沿岸湿地生態系のもつ国土保全や自然災害を予防・軽減する機能を劣化・消失させる方向で「開発」を進めた人間の側にあることを指摘し、被災後の復興・再開発計画では、湿地生態系の防災ならびに地域住民へのサービス機能を重視する必要があることを強調した。ラムサール条約ならではの先進的、先見的なメッセージだった。
 予期せぬ状況のなかで、被災国のアジアの湿地研究者が集まるAWSの役割、期待はおのずから大きくなった。ラムサールセンターはAWSの国際運営委員会に対し、緊急プログラムとして「津波と沿岸湿地に関する特別セッション」の追加を提案した。ラムサール条約事務局、インド政府、複数の国際NGOらがすぐさま賛同し、本会議のなかで地球環境と湿地生態系の視点からアジア大津波の影響と回復・再生を論議するフォーラムが実現した。大津波後、湿地専門家による最初の本格的国際会議でもあった。
 被災の現場を知る専門家からの相次ぐなまなましい報告にしばしば呆然としながらも、会議は、「生態系の回復が必要な地域を特定する緊急アセス」「津波や高波から地域住民を守る自然のグリーンベルトの創造」「沿岸湿地の回復や再生にあたって地域住民の伝統的な手法や経験の適用」など7項目の緊急勧告を採択した。勧告はすぐさま印刷物、CD、ホームページを通じて関係方面に配布されたとともに、その後、各国で次々と開催されたさまざまな視点からの津波関連の会議に、生態系保全の視点からの重要なインプットを行うのに役立った。

活性化したマングローブ保全活動
 アジア大津波は大きな被害をもたらしたが、湿地保全にとってはささやかな置きみやげを残しもした。被災地の状況の詳しい調査がすすむにつれて、同じ津波のエネルギーにさらされても被害の大きかったところと、それほどでもないところがあることがわかってきた。地形や気象、その地域の社会・産業形態などとも深く関わっているため一概にはいえないが、海岸林、マングローブ林、サンゴ礁、藻場など沿岸の自然生態系が、津波の影響を軽減する働きをしたことは明らかだった。

 そしていま、アジアの人々の間に、沿岸の自然生態系を復元し、グリーンベルトを取りもどそうという声が、徐々に高まっている。これまでも、マングローブ林の価値とその保全の重要性は多くの国際機関やNGOによって提唱され、安易なエビ養殖場や水田への転換に対する警告が発せられてきた。劣化・消失したマングローブ生態系を復元する試みも各地で行われている。
日本人のボランティア植林グループも少なからず協力している。しかし、これらの活動は地元住民、つまり本当の意味でのステークホルダーの理解と参加がなければ成功しない。
 専門家や自然保護団体が口をすっぱくして保全を訴え、マングローブ植林に汗を流しても、毎日の煮炊きに使う燃料がなければ、たとえ違法と知っていても目前のマングローブを切らざるを得ないし、人口増加に追いつかない住宅やインフラの整備が、人々の生活域を海へ海へと拡大させてしまっている。いまだに貧困ラインを脱出できないでいる多くのアジアの草の根の人々にとって、それが生きるための現実なのである。
 しかしそうした草の根の人々から、マングローブを復元しようという声が静かに沸きあがっている。たとえば、バングラデシュ南部の漁村ボドカリ村に暮らす人々は、被害こそでなかったが20〜30センチの津波が村の海岸線に届いた瞬間を目撃した。そして、NGOと協力して自らが植えた若いマングローブ林によって、津波のエネルギーが拡散されるようすを目の当たりにした。「マングローブが私たちの村を守った」と2005年1月、現地を訪れたラムサールセンターのスタッフに対し、彼らは誇らしげにそう報告した。
 インドのチリカ湖の西岸、ルシクラ地域でも、オリッサ州のNGOの協力で、劣化したマングローブ林を回復する活動がはじまろうとしている。「津波が来るのは数十年に一度かもしれないが、サイクロンは毎年やってくる。それに備えるのだ」と人々はいう。インドネシア、タイやマレーシアでも、沿岸生態系を見直し、グリーンベルトを回復しようという取り組みが始まっている。
 津波による大きな犠牲をはらったことの代償として、ステークホルダー自身が自らの意思で、沿岸湿地生態系回復へ歩みだそうとしている。


COP9決議「自然現象にともなう影響の軽減にはたすラムサール条約の役割」
 2005年11月、ウガンダで開催された第9回ラムサール条約締約国会議(COP9)でも津波は議題にのぼった。会議は25の決議を採択したが、そのひとつが「自然現象にともなう影響の軽減にはたすラムサール条約の役割」(決議9)だった。津波という特定の自然現象だけでなく、旱魃、暴風雨、洪水、気候変動などによって引き起こされるさまざまな自然現象やそれによる災害に対し、湿地生態系のもつ予防的な作用や、影響を軽減する機能を包括的にとらえ、評価し、さまざまな国際機関や他の条約とも連携してさらに強化しようという内容だ。自然災害の軽減に対する湿地生態系の役割にここまで踏みこんで言及した決議はこれまでなかった。

こういう決議が必要になる背景には、十分なアセスもないまま被災地の沿岸域を埋め立てたり、コンクリートの護岸を建設したり、波消ブロックを沈めたりの大規模な「防災」事業が急ピッチで進められている現実があるからだ。
 沿岸湿地管理の問題は、アジアだけにとどまらない。昨夏、米国南部に大きな被害と混乱をもたらしたハリケーン「カトリーナ」も、もし、あの地域に往時にはおそらくあっただろう懐の深い沿岸
林、湿地帯、マングローブ林が存在していたら、あれほどの犠牲者をださなくてすんだだろう。
 最後になってしまったが、COP9の決議リストを表に掲げておく。
 COP9では、自然現象に関する決議9以外にも、アジアと深く関係する決議がいくつか採択された。「ラムサール条約の効果的な履行に果たす地域湿地シンポジウムの重要性」(決議19)、「湿地の文化的価値の考慮について」(決議21)、「高病原性鳥インフルエンザと、その湿地および水鳥の保全と賢明な利用に対しておよぼす影響」(決議23)などである。それらについては、あらためてふれたいと思う。


表 第9回ラムサール条約締約国会議(COP9)の決議
(参考訳:ラムサールセンター)
決議1
ラムサール条約のワイズユース概念を履行するための科学技術的追加手引き
決議2
ラムサール条約の科学技術的側面の今後の履行
決議3
水に関する進行中の多国間交渉過程へのラムサール条約の関与
決議4 ラムサール条約と漁業資源の保全・生産・持続可能な利用
決議5 生物多様性を扱う他の国際機関との連携協働(生物多様性に関連する諸条約間における国別報告手続きの連携と協調を含む)
決議6 登録基準を満たさなくなったラムサール条約湿地またはその一部に対する手引き
決議7 ラムサール条約の枠組みにおける地域主導活動
決議8 2003-2008年戦略計画の実施の合理化
決議9 自然現象にともなう影響の軽減にはたすラムサール条約の役割
決議10 「ラムサール条約事務局」という名称の使用とその地位
決議11 科学技術パネル(STRP)の改訂運用規則
決議12 財政および予算事項
決議13 ラムサール条約小規模助成基金に資する仕組みとしてのラムサール条約基本財産基金の評価
決議14 湿地と貧困の低減
決議15 国際的に重要な湿地リストに掲載されている湿地の状況
決議16 ラムサール条約の国際組織パートナー(IOPs)について
決議17 締約国会議の決議の見直し
決議18 広報・教育・普及活動のための監視パネルの設置
決議19 ラムサール条約の効果的な履行に果たす地域湿地シンポジウムの重要性
決議20 特に小島嶼国における湿地の統合的、生物総合的な計画と管理
決議21 湿地の文化的価値の考慮について
決議22 ラムサール条約湿地と保護区制度
決議23 高病原性鳥インフルエンザと、その湿地および水鳥の保全と賢明な利用に対しておよぼす影響
決議24 ラムサール条約の管理の改善
決議25 主催国に関する感謝


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