〜アジア湿地探訪〜
第11回 紅河とメコン川の河口を支える−ベトナム


 2006年8月30日〜9月1日、ベトナム南部ホーチミン(旧サイゴン)市の北東400`に位置する海辺の町、カンホア省ニャチャンで、「海洋および沿岸湿地に関する教育ネットワークと能力向上、研修の促進」をテーマにした国際湿地ワークショップが開催された。
 ラムサールセンターとベトナム水産省、IUCNベトナムらが共催した初の国際湿地ワークショップで、日本、韓国、中国、マレーシア、タイ、フィリピン、インド、ネパール、バングラデシュの国際専門家30人はじめ、国内の政府、自治体、大学、NGOなど計100人が参加し、2日間にわたって湿地の環境教育をめぐる情報、技術、プログラムの交流・交換について議論した。その成果にもとづき、政府、専門家、NGOが参加するベトナム国内湿地教育ネットワークの設立を決定した。最終日にはみんなで船に乗り、前浜に広がる風光明媚な「ニャチャン湾海洋保護区」の視察、観光気分にもひたった。

●多様な造礁サンゴの海、ニャチャン
 インドシナ半島の東岸に位置し、中国、ラオス、カンボジアと国境を接してS字状に細長いベトナムの海岸線は、延長3000`bをゆうに超える。ベトナム国土を特長づけるのは、この長い海岸線と、ラオス・カンボジア国境に横たわる3142bを最高峰とするアンナン山脈、そして中国雲南省に源を発する2つの国際河川、紅河とメコン川が形成する広大な河口デルタである。
 ベトナムの約2500本の河川は、紅河とメコン川を別格として、ほとんどがアンナン山脈から東に流れくだる河道の短い急峻な河川で、下流部に小規模なデルタを形成して南シナ海に流れこんでいる。淡水と海水がまじる河口近くの汽水域は生物多様性、生物生産性が高く、人々は点在する入り江や湾岸の平野部にはりつくように集落を形成し、沿岸漁業に多くを依存して暮らしてきた。高温多湿のアジアモンスーン地帯に属し、洪水や高波、台風に年中行事のように悩まされるなど、日本と多くの共通点をもっている。
 1975年にベトナム戦争が終結し、政治、経済が安定して人口増加の波が押し寄せたとき、人々がまっさきに新しい居住地を求めたのはそんな海岸部だった。湾内に大小9つの島が点在するニャチャン湾もそうした新興入植地のひとつである。現在は、面積1万3000fの保護区内での漁業やロブスター養殖などで生計を立てている5300人の漁民をはじめ、周辺域を含めれば約30万人の人々が暮らしている。
 ニャチャン湾の特徴は、オーストラリアの誇る世界自然遺産グレードバリアリーフにも匹敵するという美しいサンゴ礁の海である。サンゴ礁を形成する造礁サンゴは世界に約800種といわれるが、そのうち340種がここでは記録されている。
 「グレートバリアリーフは延長2000`にもわたる広大な海域だが、わずか1万3000fの狭い海に、これだけの多様な種が密集している点にニャチャンの価値がある」と、IUCNベトナムの代表バーナード・オカラハンはいう。2001〜2005年、ここを海洋保護区にするためにIUCNから派遣されたアドバイザーとして、地元政府や住民と協力しての保護と利用の計画づくりを一から手がけてきたオーストラリア人である。
 ワークショップの最終日、船底がガラス張りになっている遊覧船からのぞいたニャチャンの海底の光景は、大小さまざま色とりどりのサンゴでびっしりとうずめつくされ、ただただ息をのむしかなかった。「この海を壊してはいけない」。心からそう思った。

●海洋保護区管理への確かな住民参加
 ニャチャン湾のサンゴ礁や藻場の衰退、劣化が問題となったのは20年ほど前からである。無尽蔵といえるほどの漁獲が減少しはじめた。原因は、漁民の増加による単純な漁獲過剰に加え、ダイナマイトや毒物を使用した破壊的違法漁業の横行、船の錨をおろすことによるサンゴ礁の破壊、オニヒトデの繁殖、上流部からの土砂の流入による汚染など複合的だった。「地元漁民以外の外部資本が、湾内にロブスターやクエなど経済魚の養殖施設を多数設置し、漁場が狭められたことも関係していた」とオカラハンは指摘する。ニャチャン湾でだけでなく、ベトナム沿岸の多くの海域で同様の問題が発生し、人々の暮らしは次第に困窮した。基幹産業のひとつである漁業の衰退は、ベトナムの国力を左右しかねない重要問題となった。
 ベトナム水産省は、海洋資源の保全と持続可能な管理を実現するため、主要な沿岸域を海洋保護区とする方針をたて、ニャチャン湾を第1号モデル事業地に指定した。2001年6月、水産省とカンホア省人民委員会はIUCNベトナムをパートナーに、モデル海洋保護区事業に着手した。事業計画と実施にあたってもっとも重要視されたのは、湾の資源の直接の利害関係者である地元住民の参加だった。そのため4つの基本原則が立てられた。@保護区の管理への参加、A監視、実施、促進への参加、B漁業に代わる生計手段の確保、C長期的な視野に立った保護区の持続可能な経済発展のための必要条件の明確化、である。
 湾の生態系、海洋・水産資源の調査と並行して、地元住民の社会経済的調査と、徹底した話し合いがおこなわれ、漁民の納得のもとに破壊的な漁業や錨の使用の禁止、禁猟区・禁漁期の設定、養殖施設の制限、オニヒトデの駆除、ゴミの清掃、エコツーリズム推進のための研修、レストランやダイビングセンター、ビジターセンターの建設、港湾施設の整備、環境教育プログラムづくりなどが並行的に実現されていった。エコツーリズムに関連した収益の一部を地元に還元する仕組みもスタートした。
 2005年、事業は完了し、保護区がオープンした。その後の1年間に、ニャチャン湾保護区を訪れた観光客は40万人にのぼった。かつてはひなびた漁村だったニャチャンは、ホテルの林立する国際的なリゾート観光地へと発展しつつある。べトナムの海洋保護区は現在15か所、ニャチャン湾保護区はそのリーダーとなったのである。
●ラムサール条約実施への取り組み
 ベトナムがラムサール条約に加入したのは1989年で、ハノイ南東の紅河河口域の1万2000fのマングローブ湿地「シュアントゥイ」を第1号登録した。東アジアでは日本に次ぐ早い加入で、15年におよんだベトナム戦争による国土の荒廃から立ち直り、新生ベトナムとしてラムサール条約を通じ国際社会の仲間入りを果たしたことに、当時、新鮮な思いを抱いたものだ。
 しかしその後、湿地保全やラムサール条約の実施に関してベトナムは、とくに目立った動きをみせてこなかった。登録湿地数も長い間、1か所のままだった。
それがここにきて、急に動きが活発になってきた。なかでも注目されるのは、ニャチャン海洋保護区がオープンした同じ年、ベトナム環境保護庁、IUCNベトナム、メコン川湿地の生物多様性保全と持続可能な利用プログラムが共同で、初の国別湿地報告書「ベトナムの湿地の現状−15年間にわたるラムサール条約の実施の足跡」を刊行したことである。A4判70ページの立派な報告書で、アジア諸国で、ラムサール条約実施の観点からまとめられた同種の包括的な湿地報告書の存在を私は知らない。同じ時期、南部の季節性淡水湿地「バウサウ」が、第2号のラムサール条約登録湿地に指定された。
 さらに、今回の湿地環境教育をめぐる国際ワークショップの開催である。オカラハンによれば、社会主義国家であるベトナムが、他国のNGOと共同で、自国の具体的な環境問題をテーマにした国際会議を開催することはめずらしいことだという。またこの会議中、ラムサールセンターが2008年に計画中の第4回アジア湿地シンポジウムの招致に、ベトナム環境庁のドォングタンアン国際課長が名乗りをあげた。まったく予期しない発言だった。ベトナムの積極的な姿勢に、目を見張る思いだった。
 ベトナムは、アジアの大動脈のひとつ、国際河川メコン川の最下流に位置する国である。メコン川は複雑な国際的政治的ダイナミックスの渦中にある湿地で、生態系保全の観点だけからシンプルに言及するのは難しいが、ベトナムが中国、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジアなどの上流国とは異なった視点からの重要な役割をになっている。もちろんその力量に不足はない。期待したい。


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