〜アジア湿地探訪〜
第10回 新興工業国としての責任を果たす−マレーシア


 マレーシアは1994年にラムサール条約に加入し、登録湿地は現在5カ所である。私はその第1号登録湿地タセクベラを、1998年7月に訪れた。
 同国北部の都市、ペナンのマレーシア科学大学(USM)で開催された国際湿地ワークショップのエクスカーションとして、クアラルンプルのさらに100`東にあるタセクベラまでバスで延々8時間、マレー半島を縦断した。シンガポールまでつづく高速道路はよく整備されて快適なドライブだったが、目を見張ったのは、車窓にひろがるオイルパーム(アブラヤシ)のプランテーションの光景だった。
 北部にみられた水田地帯が南下するにつれ姿を消し、やがて右も左も丘陵地帯を埋めつくすヤシ畑になった。濃緑色の葉、濃茶色の茎、毛むくじゃらの実、同じ高さ、同じ間隔、同じ顔をした単調な光景が、何時間もつづく。
 マレーシアの経済発展を担ったのがパームオイルの輸出であることは知っていたが、これほどの規模のプランテーションだとは想像できなかった。これらのヤシ畑はすべて、かつてうっそうとした熱帯林におおわれていたはずだ。その不気味なまでのモノカルチャーのヤシ畑のまんなかに、3万8000haのタセクベラはあった。

●生物多様性の宝庫、タセクベラ
 南シナ海に流れこむパハング川の上流部に位置し、その90%を占める泥炭湿地林と、淡水湖、沼沢地からなるタセクベラは、年間2000ミリを超す降水量に支えられた生物多様性の宝庫である。370種の植物、68種の哺乳類、94種の魚類などが記録され、絶滅が懸念されるアジアゾウやジャコウネコの仲間のキノガーレ、マレーバクなどが含まれる。そして、約2000人のセメライと呼ばれる先住民が暮らしている。ラムサール条約登録以降、保護区でのいっさいの開発行為は規制されているが、600年以上前からタセクベラの植物採取や漁業に依存して生活してきたセメライの人々の湿地資源の伝統的な利用はいまも認められている。
 マレーシア政府は、淡水湖ベラ湖の湖畔に観光客用のコテージやレストランを整備し、湿地の自然を知りつくすセメライの人々を研修し、自然観察ガイド役として育て、エコツーリズムを奨励しようとしている。ボートをたくみに操り、軽快な足どりでジャングルを案内してくれたのも、若いセメライの青年だった。
 セミ、鳥、サルの声が四方から降りそそぐジャングルは、それまでの高速道路とヤシ畑の世界とはまったくの別世界だったが、実は保護区は全体を金網の背の高いフェンスで囲まれている。違法伐採や密猟を防ぐ意味もあるが、ほんとうは野生のゾウなどが周辺のヤシ畑に出て食害するのをふせぐためだという。保護区とはいえ、見方を変えれば広大な檻のなかに自然を閉じこめているようなものである。それほど強権的な手段をとらなければ湿地は守れないのかと、複雑な気持ちだった。

●アジア湿地調査局(AWB)の役割
 アジアの湿地保全を語るとき、マレーシアの果たしてきた役割を無視することはできない。現在、オランダに本部をおく国際湿地NGO「ウェットランドインターナショナル(WI)」の前身組織のひとつは、オーストラリアの若手鳥類研究者ダンカン(現ファイザル)・パリッシュが1983年にクアラルンプールに創設した「INTERWADER」だった。WADER(渉禽類)の名が示すように、シギ・チドリ類の調査研究NGOだったが、87年、より広い視野から湿地の保全と賢明な利用をめざす「アジア湿地調査局(AWB)」に改組し、アジア太平洋地域における国際的な活動を開始した。
 AWBの活動の特徴は、政府や企業とのパートナーシップに重点をおいたことである。途上国政府に働きかけて国家レベルの湿地保全事業を提案し、国際機関や欧米政府、企業をまきこみ、政府とNGOが協働して目標を達成するスタンスを堅持した。マレーシアはじめインドネシア、フィリピン、タイ、インド、中国などの湿地目録やラムサール条約登録湿地の保全・管理計画づくりは、創設者パリッシュの卓越したコーディネーション能力とマネジメント感覚に負うところが大きかった。
 アジアにおける自然保護や環境保全活動はそれまで、IUCNやWWFなどヨーロッパ系の国際自然保護団体が主導権をにぎり、アジア人スタッフを指導するというスタイルが主流だったが、アジアの湿地保護にはアジア人が責任をもつという意識の萌芽を植えつけた点も、AWBの功績のひとつである。
 1995年、AWBは英国に本部のある国際NGO「国際水禽湿地調査局(IWRB)」と、カナダに本部のある「ウェットランドフォーアメリカ(WA)」と合流して、世界最大の湿地NGO「WI」となった。
 IWRBはIUCN、WWFと並ぶ国際自然保護団体の草分け的存在で、1950年代に活動を開始し、ラムサール条約の誕生にも大きく貢献した。そのIWRBがなぜかアジアの後発NGOと手を組み、由緒ある本拠地英国スリムブリッジを出てオランダに移ったのである。WI役員の多くをAWB関係者が占めたこと、創設記念の「湿地と開発に関する国際会議」が95年10月、マレーシア・セランゴールで60カ国300人の参加を得て鳴り物入りで開催され、マハティール首相(当時)がじきじきにWIの設立宣言をしたことなどから、マレーシアが担った重要な位置と役割が推し量れる。ある意味で、マレーシアをはじめとするアジアの成長エネルギーが、経済発展に翳りの見えはじめた欧米にとってかわった組織再編だったといえなくもない。

●「アジア湿地シンポジウム2001」の開催
 マレーシアがアジアの湿地保全に果たしたもうひとつの大きな貢献は、「アジア湿地シンポジウム(AWS)2001」(8月・ペナン)の実現である。AWSは、ラムサールセンターと環境庁(当時)ほかが共催し、1992年10月、アジア地域全体を視野に入れた初の国際湿地シンポジウムとして大津市と釧路市で開催されたが、その後8年間、それをフォローする全アジア的な湿地会議は開かれてこなかった。そのとき、「92年のAWSで先進国からさまざまなことを教えてもらい、マレーシアは湿地保全を進めることができた。こんどはマレーシアが、もっと貧しい国々のために、いまできることをするべきだ」とシンポジウム招聘したのが、USM生物学部教授のアユディン・アリだった。92年のAWSの参加者のひとりである。
 AWS2001はラムサールセンター、マレーシア政府、WI、そしてUSMの共催で、37か国350人の参加者を迎えて開催され、マレーシアは、95年のWI創設記念以来の本格的な国際湿地会議のホスト役を、ふたたびみごとに成し遂げた。シンポジウムで採択された「ペナン声明」は2002年の第8回ラムサール条約締約国会議で配布され、アジアの湿地イニシアティブの具体的成果として高い評価を得た。しかし、残念なことに、アユディン・アリはもうこの世にいない。AWSが終了して3週間後に突然倒れ、2004年7月、肺ガンで47歳の若さで亡くなってしまった。彼は2001年、アジアの湿地の生態学研究でもっともすぐれた業績をあげた若手研究者として滋賀県生態学琵琶湖賞を受賞していて、将来を嘱望された科学者だったのだが。

●ミレニアム生態系評価「湿地と水総合レポート」
 最後に、USMが育てたもうひとりの湿地科学者を紹介しておく。ラムサール条約科学技術検討委員会(STRP)副議長のレベッカ・ドクルツである。彼女はUSM生物学部で学び、卒業後はAWBそしてWIのスタッフとして働き、1996年から3年間、ラムサール条約事務局(スイス)で、アジア担当オフィサーとして活躍した。「USMで、アユディン教授から湿地生態系の魅力と保全の重要性を教えられたのが、この世界に飛びこむきっかけだった」と彼女はいう。
 レベッカの最近の注目すべき業績は、彼女が英国やオーストラリアの国際的科学者らとともに「ミレニアム生態系評価」にかかわり、「湿地と水総合レポート」をまとめたことだ。今後、世界の湿地生態系保全の方針決定における科学的基礎となっていくだろう画期的なレポートである。またレベッカと私は、新しくスタートしたWIの「湿地と貧困低減プロジェクト」のタスクチームに招聘され、これから4年間アフリカ地域を中心に、共同で仕事をすることになった。私たちのアジアでの経験がどうアフリカの地で生かされるのか、楽しみである。


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